共に生きるとは
年甲斐もなく私は人前で大泣きした。
生き物が死ぬことはあること。
自分がなぜ人前であんなに泣いたのか。考えてみると死んだことに対しての悲しみではない。
自分の心がぐわんっと反応したのは、死んだものが使い捨てのようにされたその瞬間だった。
彼らは新しい命を捕まえてきた。それに喜ぶことはとてもいいと思う。
私の手の上に、誰にも相手にされない死殻がのっている。その死殻を見て私は、何故死んだのか考える。
考える考える考えろ!
私の体は爆発していた。水分がどんどん出て行く。
ふと、一人の子が、
「埋めに行こうよ」
と声をかけてくれた。
その言葉が温かかった。
夏休みに亡くなってしまった5匹のカナヘビは、私の家の前の桜の木の下に埋まっている。朝起きて窓を開けた時、出かける時、帰ってくる時、いつでもその木を見る。
居なくなっても一緒にいる気がするのは、彼らの死が今の自分を作っている欠片になっているからだ。
今まで、傷つくのが嫌だから、避けてきたことはたくさんある。
でも傷つくから豊かになる。
でも同じところにずっと同じ傷をつけていたら、傷はただただ深くなるだけだ。
小さな傷はすぐ癒える。しかし傷跡として残る。消してしまいたいと思う。でも、その傷跡さえも可愛がってあげられたら、きっとそれは深い深い愛にかわるのだと思う。
考えては吐き出す。間違っていたら訂正する。そうやって、本当に大切なものを残していくしかない。
死ぬ時に自分は何と言葉を発するのだろう。